永井芳和さんは、母方の祖父にどことなく似ていました。その雰囲気だけで僕は親近感を覚えていました。
永井さんとは仕事の関係で知り合いました。冬でも日焼けしたような浅黒い方で、パンチパーマみたいな天然パーマの白髪が印象的。 今ではあまり見かけないような色眼鏡を掛けてらして、年齢よりも少し歳をとって見えました。 お酒とタバコも好きでたしか、「わかば」を吸っていたかな…。今思えばあの浅黒さは病気のせいだったのかも知れません。
僕と会う時はよくビールを飲みながら色んな話をしてくださいました。
どんな話をしても、最後になると冗談めかして「もうどうせ俺はすぐ死ぬ、やるだけやった」とか「いつ死んでもいい」とかそんな事ばかり言うので、「まだまだ死にませんよ。70にもなって無いじゃないですか」と返していました。
社会人としての永井さんは大阪読売新聞の元論説解説委員で、2008年で退社。その後は大阪産業大学の客員教授をされていました。僕の記憶が正しければ2013年まで働かれていたと思います。詳しくは聞きませんでしたが、がっかりしたと言って大学を去ったと聞きました。
新地の飲み屋さんの事とか東寺の古本市の事、新聞記者になりたての頃の苦労した話、朝日新聞阪神支局襲撃事件や、三菱銀行事件当時の事や、その他にも思い出したらキリのない位本当に色んな事を僕に話してくださいました。浅学の自分が恥ずかしくて、話をした後には本を探してみたりネットで調べてみたりもしました。
永井さんとはしょっちゅう会っていたというわけではありませんが、それでも東京に住むお子さんの家族の所へ引っ越す、古本市で集めた古書のコレクションも売りに出したとよ、と聞いた時は本当に寂しく思いました。
「用事はまだ幾つかこっちにあるし、また会う事もあるよ」
最後に会った時は、確かそんなような事を僕に言っていました。きちんとした別れもなかったです。
自分も東京に行く機会はあるし、いつかまた会えるだろう位に思っていました、永井さんの奥様から喪中のハガキが届くまでは。
今日永井さんの事を書こうと思ったのは、久しぶりに永井さんの本を読み返したからです。2009年当時は橋下さんが大阪府知事になった頃だったんですね。冒頭から随分批判的に書いているのが永井さんらしいと思いました。
大本営発表の垂れ流し報道を嫌い、自分で調べ、考え、発信する事を旨とした永井さん。僕はジャーナリストとしての永井さんを知りませんが、こうして永井さんの哲学が遺るのは素晴らしい事だなと思います。
おおよそ半分くらいまでが大阪のジャーナリズムの歴史。半分くらいが大阪読売新聞の成り立ちや朝日新聞との対決の歴史、柳田國男さんとか黒田清さんの話とか、中にいたからこそ見える部分を書いています。宮武外骨さんなんかは本書を手に取るまで全く知りませんでした。以下、あとがきより抜粋
やっと自らに課した宿題ができたというのが、率直な感想だ。大学で歴史学を学んだ者として、ジャーナリストを志した者として、自らが見たもの、思ったことを記事とは別に書き残したい。それを定年退職後に実現することができた。本書がジャーナリストを志す若い人たちの、少しでも参考になればと思っている。
以下、自分のための備忘録。ネットで見つけた永井さんの文章など